結局そんなもんだという話

自己紹介から発達障害適応障害の説明を消した。

別にそれをしたからといって何が変わるわけでもなく、どうでもいいと思ったからだ。

 

自分の症状としては感覚過敏、空間把握能力に欠ける、頭と心と身体の動きがずれやすい、物事を理解して自分の身体に落とし込むまでに時間がかかる、発語が遅かった、動作性が低い、適応障害などまあいろいろあるにはあるのだけど、今現在薬を飲んでいるわけでもなければ、仕事が出来ないわけでもないし、コミュニケーションに大きな問題もないし、自分自身でそれなりに対処が出来ている。

そもそも発達障害の診断をしたのは親のすすめであり、診断が出たときも「貴方達の納得する結果でよかったね、あと制度利用出来てお得だね」という感想だった。

 

思うに、今まで自分は周囲の人の気持ちに配慮しすぎていたのではないだろうか。

「どうだっていい」「貴方はそう思うんだね把握した」でおしまいになる物事が多い方だ。

それをあの人はこう言うからとか、心配されたから、人間味がないらしいから、と無理矢理「どうだっていい」ことに意味を見出そう、感情的になろうとしていた。 

無から有は生まれないのにね、こうやって言葉にしてみるとアホみたいだなあと思う。

周囲の人の気持ちを大事にしようとした結果なのだろうけど。

 

僕は、人より緩やかな心の動きをしている。数年経って分かることも多いし、うわーっとその場で怒れる程の素早くもないし激しくもない。

人のことは好きだ。けれど怖い。

泣けると評判の映画よりバラエティー番組やニュース番組の方が涙腺がゆるくなる。

どうだっていいことが多い。

無の感情になりやすい。 

人からすれば正気度減るようなことでも「はいはい、了解」って感じだ。

発達障害の診断に何の感慨もなかった。

人のことはどうでもいいにはどうでもいいけど、どうでもよくないといったらどうでもよくない。

親を癇癪で叩く子どもは見ているだけで怖い。

エレベーターに乗ることがなんとなく苦手だ。

完璧主義なところがある。

無性に祈りたくなるときがある。

「一生貴方の味方だ」なんて言えない。貴方の味方でありたいとは思うし言うけれど。

そういう、妙なこだわりがある。

経緯に同意も共感もしなくても、人の感情に共鳴しやすい。※

相手が泣いていたら自分も泣きたくなるし、盛り上がっていたら別に酔っていなくても気分が盛り上がる。

分かりにくいと言われたけど自分なりの愛はある。 

縄張り意識が強い。

公私の切替がはっきりしている。スイッチみたいにバチッと切り替わる。

それで別にいいんじゃないかな。

分かりやすくなくてもいいんじゃないかな。

偶々自分の周りの人には分かりにくい精神構造をしていた。 

無感情なのではと心配をされやすかった。 

僕は周りの人の要望に応えようと頑張った。

 

結局のところ感じたままでいいのだ。

それで文句言う奴とはどうせしんどくなって離れるのだから早めに離れておけば楽だし。

効率的でいいじゃないか。 

そもそも大衆に支持されるような精神構造になる必要はないし、人間らしくなる必要もない。

時が経つに連れて感じ方は変わってきたけれど、根っこの部分は変わっていないし、これからも変わらないのだろうと思う。

 

どうしたって僕は僕にしかなれないのだし。他の誰かにはなれない。

そんなもんだ。

 

ツイッターで教えてもらったのだけど、共感は有償性ミラーリング、共鳴は無償性ミラーリングなのだろう。

絵にある様な有償性ミラーリングは出来るのだけど、それはプログラムみたいにこうしたらこうするみたいな感覚でやっているところがある。

勘違いしてほしくないのは、経緯に同意も共感も出来なくとも、相手の感情はよくよく伝わっているし同じ感情になりやすいので慰めたり優しくしようと行動したことは本当だということ。

自分の場合は無償性ミラーリングの方が優位であるだけのかもしれない。

気功師の方に霊媒体質だと言われたのでそれもあるのだろうなあと思った。

取り敢えず、教えてもらった本を読んでみようと思う。

(絵の出典は「メンタライゼーションでガイドする外傷的育ちの克服」)
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